第1回-後編 石部宿→関宿 東海道路線バスの旅(2022年11月13日)

前編(京都三条大橋→石部宿)はこちらから

石部宿→水口宿

ここから先が…苦労しました。
まず、石部駅から甲西駅を目指しました。
草津線に沿って進みます。

甲西へ向かう途中の、旧東海道沿いのバス停「柑子袋(こうじぶくろ)」です。

真っ白で、割とぞっとします。
これはたまたま徒歩ルート上にあっただけのバス停ですが、本当に乗らなきゃいけない区間でこういうダイヤを突き付けられることも多々。
それまで順調に来ていたのに唐突に詰み確定、3時間歩きとか、そういう仕打ちがあるのがリアルなバス旅です。

まぁ別に誰も見てないし、タクシーでも呼べばええやん、という話なんです。一人だと確かに嫌になりそうですが、旅の相方が居るとなんやかんやでこういう状況も楽しめます。

基本、歩いている間はずっと喋ってます。
仕事の話、子供の話、思い出話、人生観の話…。
仕事関係が多いかな…?

旧街道沿いは、花のおもてなしが続き、今後の行程に一抹の不安を抱えながらも、楽しく歩いていました。
地域の方に感謝。

一時間ほど歩き、甲西駅南口に到着です。

で、案の定、こうなる。

この場合、先の「柑子袋」のような時刻表の方が諦めがつくだけまだマシで、こういう「頑張れば間に合ったんじゃね?」みたいなのが一番精神的に来ます。

あの時トイレに行ってなければ、あの時余計な写真を取らなければ、もっと早いペースで歩いていれば…

甲西駅

この間、ちょうど草津線が来てまして、一瞬乗ってしまおうかと悪魔のささやき。
しかし、初回ですし、ルールは遵守しました。

して、駅の反対側(北口)へ急行。

とりあえず、バス自体はたくさんあるようです。
そして、突如あふれ出す知らない地名の数々、どこやどこや!と怒涛の地図めくり。

下田、ひばりが丘、菩提寺、近江台、イオンタウンを手分けして高速サーチ。ひばりが丘行きのところには、さらに温泉と岩根の文字。

甲西駅のバス停に出てくる地名

結局、一番最初に来るひばりが丘行きに乗り、イオンタウンに一番近い善水寺で降りる決断を下します。

仮にイオンタウンで次がつながらなくても、最悪三雲までは歩けるし、ここ(甲西駅)から徒歩で三雲へ向かうよりは、距離を詰められます。

つかの間のローカルコミュニティバスの旅。

とても首都・東京を目指している道中とは思えない、狭い田舎道を進みます。

ところが、この方法は奏功しません。
休日は、イオンから三雲へは向かわない。

ファインプレーならず、すぐに1号線を水口方面へ向かいます。

イオンモールからの進路

地形的に、イオンから直接三雲駅へ向かうより、三雲北方の横田橋を渡ってくる水口行きバスと、下田方面から水口方面へ向かうバス(あれば)を両方狙える「横田橋北詰(仮称)」停を目指して進むのが得策と判断しました。

ところが、横田橋に至るまでの間にある「朝国」停で、下田方面からの路線は三雲駅にしか向かっていないことが判明。
しかも、10分前に出たばかり。

で、肝心の「横田橋北詰(仮)」が、ない。

TOTO前

一応、三雲方面行のポールはあったんですよ。
しかも、停留所名は「TOTO前」だし。これは帰ってから気づきました。

この時点では、これだけ多く本数があれば、反対(水口)へ行くのも余裕だろと、思うわけです。

しかし、これが罠だった。
よく見ると、土日の14時半から16時過ぎにかけての時間帯だけは、空白です。

つまり、三雲から折り返してくる便も、その間は…。

結局、正味2時間程度、このあたりをさまよい歩くことになります。
存在しないバスを求めて、下図のバス停を全て巡る羽目に。

水口西部

で、成果は芳しくなく。
あれほど反対(三雲)方面行の便があるのだから、水口へ戻る便もあるはずだ!と思い込み、「あるはずの消えたバス」を追って、右往左往させられたわけです。

日没を控え、2時間ぶりにようやくバスに乗ります。
ちなみに、三雲へ行ったとしても、結果は変わらず待ちぼうけでした。

あまりにも手持無沙汰なので、近くに見えた「すき家」で腹ごしらえもしました。本当は、地元のモノを食べたいんですけどね。

なお、この時点では、まだ水口で終えるか、先に進むかの結論は出せていません。

44.水口宿

本陣1、脇本陣1、旅籠41

入り組んだ街路は城下町であったことを物語るが、とりわけ本陣脇の三筋の道は独特。

街道は三つに分岐して並行し、やがてまた一つの道へ戻る。

侵入した外敵をかく乱させる狙いがあったそう。

水口宿→土山宿

本陣跡最寄りのバス停は「松葉町」ですが、この時間帯にそこを通る便がなく、ダメ元で次のバス停「立場山」まで歩いて進むことに。
結果は的中。本数が一気に増えました。

水口東部

次発が17時48分ですが、ここでその次18時33分が「山中経由大河原行」であることに気づきます。
この「山中経由」は貴重で、土山町内を通り過ぎ、県境・鈴鹿峠のすぐ近く「熊野神社」まで行ける路線です。

立場山バス停

相方にそのことを告げるとともに、まだ日没直後であること、当初目標の三重県入りができていないことなどを根拠に、水口で終えずに進むことを決断しました。

乗り継ぎの仕組みはよくわかりませんが、熊野神社行の発車場所を尋ねた際に「運賃は次のバスで払ってください」とのことでした。

土山には鉄道が通ってないので、今もバスが公共交通の主役。
乗り場の大きさや便数の多さ、出札所も備えた大きな待合施設など、一昔前の「バス駅」が令和の時代も大活躍している様子が見られ、嬉しく思いました。

近江土山「駅」
充実した路線図と時刻表
45.土山宿

本陣2、脇本陣0、旅籠44

鈴鹿馬子唄に「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」と歌われ、峠を境にして天候が変わりやすかった様子であると思われますが、「あいの」については、確かな意味が分かりません。

鈴鹿馬子唄は、東海道の往来で活躍した「馬」を曳く馬子たちの労働歌です。

土山宿ゲットの帰りには、あいくるバスの営業所横を通りました。
もうすっかり夜です。

平成万人灯の隣です

土山宿→坂下宿

土山からは、熊野神社を目指します。
バスは真っ暗な国道一号線を、淡々と進みます。

ただ、「淡々と」というのは、バス旅においては「猛スピードの進行」を意味します。
郊外のバスは、我々が普段乗っている京都市内のバスと違い、バス停の間隔が長く、信号もないので自家用車並みの速度で進めます。
バスでたった10分の距離が6-7kmあって、徒歩だと2時間近くかかる、なんてことはザラなのです。
(繁忙期の京都なら、逆に徒歩の方が早い場面が良くあります 苦笑)

だからこそ、この近江土山→熊野神社の間のバスに乗れたことは、大きな意味を持ちます。

田村神社を過ぎれば、乗客の動きも少なく、車内にはエンジン音と次のバス停を告げる放送だけが響きます。
夜の峠越えが近づき、緊張感が高まります。

あっという間に熊野神社に到着。
ここが滋賀県最後のバス停です。
そして、時間的にも、本日最後のバスでしょう。
ここから歩みだせば、次は10km先の関宿まで歩ききるほかありません。

熊野神社バス停

バスを降りると、すぐさま山中の冷気が全身を包みます。
国道1号の鈴鹿峠区間は、4車線の立派な道路です。
しかし、新名神自動車道ができたからなのか、車通りは少なく、静かです。

ほどなくして、旧東海道の道標を発見。
いよいよ国道を外れ、峠道です。
街灯は絶えましたが、月明かりが周囲を照らす中、道は鈴鹿峠のトンネルの上に周り込みます。

東海道中の険しさでは「東の箱根、西の鈴鹿」と謳われるほどの峠ですが、土山側からのアプローチはあっけなく、すぐさまピークに到達、道は林の中に吸い込まれていきます。いわゆる片峠です。

峠付近には解説板や道標がいくつかあり、それを過ぎると突如、道は表情を一変させ、砂利道や石段、つづら折りが続く急な下り坂となります。

月明かりが届かない、真っ暗な森の中で、スマートフォンのライトを頼りに進みますが、まさに落ち武者狩りにでも遭いそうなロケーション。
正直、怖かったです。山賊はないにしても、熊でも出たらどうしようかと。

何せ暗いので、途中道を間違えそうになりながらも歩みを進め、時間にすれば僅か30分程度、距離にして3km程で山道を脱出。

意外なほどあっさりクリアしてしまったがためか、坂下集落の明かりが見えたときに、あまり感慨はなかったです。
あるいは、ここから先も歩き続ける覚悟ができていたからかもしれません。

坂下宿→関宿

伊勢坂下バス停前

坂下宿は、文字通り鈴鹿峠の坂の下、江戸期には本陣3件を数え賑わった宿場でしたが、現在は鉄道や改良された国道からも外れ、どこにでもある山間の静かな集落といった風情です。
ただ、本陣跡などの石碑はしっかり整備されています。

46.坂下宿

本陣3、脇本陣1、旅籠51

難所・鈴鹿峠を前にした宿場で、当初はさらに峠側に1.3kmほど上った場所であったものの、水害により、現地へ移設されました。

旧東海道の散策路はそんな国道を大きくショートカットし、断崖を駆け下りるかのような道筋でしたので、一日中歩いた脚にダメ押しのような疲労を与えます。

バスは1日4本。最終はもう3時間以上前に出てしまっているので、迷う余地もなく歩いて約7km先の関宿・関駅へ向かうことになります。宿場間を完全に歩き通すのは、東海道五十三次バス旅スタート以来、初めてです(と言ってもまだ初日ですが)。

坂下を後にすると、四日市市内で伊勢湾にそそぐ「鈴鹿川」が刻む渓谷に沿った道を歩きます。

宿場から続く道は相変わらず旧道で、車が行きかう現国道からは離れて進みます。暗いながらも、視界は開け、月明かりの中を車に邪魔されることなく歩けます。
センターラインを挟み、男二人でスタンドバイミー。
存外、快適な道中でホッとしました。

日中であれば、この辺りで広重も描いた「筆捨山」が見えたはずですが、闇の中です。ある意味、鈴鹿峠も、逢坂越えのように街道の遺構が残る重要なポイントであっただけに、夜行軍で駆け抜けてしまうのが惜しい気もしました。

こうした紀行文を綴るにしても、画が無ければ面白みに欠けてしまいます。それに、バス旅の記録としても、やはりバスに乗って移動しなければ、単なる徒歩旅と変わらないわけで。

しかし、歩くしかなかった昔の人の苦労を知ればこそ、バスのありがたみが骨身に沁みるというものです。

まだ自家用車が普及していなかった昭和40年代中頃まで、路上交通の主役はバスでした。
町を結び、人を結び、貨物も扱っていた国鉄バスの時代には、ここ坂下~関間も「亀草線」という幹線が走っており、毎日、多くの路線バスが鈴鹿峠を越えていました。

路線名の亀草とは、亀山と草津を表しており、今日移動してきた道中の半分、そして苦労した滋賀県南西部のすべてを一本の路線でカバーしていた時代が、確かにあったのです。私は、全盛期を目の当たりにできなかった世代ですから、今となっては、にわかに信じられないのですが。

そのころに旅をしてみたかったと思う反面、それだと今のような行き当たりばったりのゲーム性とは程遠いのもまた事実。
当時の時刻表だと、一日でいったいどこまで行けたのか、気にはなりますが子細に調べる術はありません。
(だからこそ、後年こういうブログの価値が出て来る…かもしれない??)

20時半を回り、関宿に入ります。

関宿、そして関駅へゴール

月夜の関宿

旧東海道筋唯一の伝統的建築物群保存地区。
関と言えば、刃物で有名な岐阜県関市を想起される方が多いでしょうから、決して知名度が高いわけではありませんが、全長1kmを優に超える、町屋が連なる街並みは圧巻です。

電柱も見えないように工夫され、高さも2階で揃えられ、正直、ホテルやマンションが林立する京都の街中よりも、よっぽど風情があります。

47.関宿

本陣2、脇本陣2、旅籠42

宿場名の「関」は、愛発の関、不破の関とともに「日本三関」に数えられた鈴鹿の関が当地に置かれたことから。伊勢別街道や大和街道との分岐点でもあり、大いに栄えた。昭和59年には伝統的建造物群保存地区に指定され、往年の街並みが守られている。

そして、こんな時間ですが、通りに面した窓には明かりが灯り、ささやかに飾り付けられた商店のショーウインドウが目を楽しませてくれます。
こんな時間に素通りする旅人をももてなそうという意気が伝わってきて、嬉しいものです。

ただ、この頃には相方の脚は完全に限界を超えており、もはや止まることができない。止まると歩けなくなるからということで、常に定速で進むロボットと化していました。

後で確認したら、この日の歩行距離は30km、歩数は5万歩を超え、そりゃ普段からよっぽど歩いていなければ耐えられないレベルの運動です。
結局、水口か土山で打ち切って、明るいうちに土山を超えて坂下からはバスに乗るのが正解だったように思います。

しかし、それも結果論。
坂下からのバスが1日4本で、午前に2本、午後に2本、なんていう情報は、現地に行ったから分かったのであり、それが前日までの予約制乗り合いタクシーであったなら、結局歩かざるを得なかったわけです。

がんばって関まで歩ききったことが、ひとまず今日のわれわれの成果であり、ゴールでした。

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